川崎大師の名物として広くその名を知られてた久寿餅(葛餅)の由来を尋ねますと、万葉集の時代、山野に自生する豆科の葛を指しますが、たびたび歌に詠まれ、秋の七草の一つにも数えられていますが、山芋に似たその根から葛粉が作られ、これをこねて餅にして食したと考えられます。この葛の餅や「だんご」は五穀の産の少ない山間部では主食の一つとして、或は補食の糧として後生まで永く用いられました。


    室町時代に東海道の日坂宿での名物となっていた「わらび餅」は葛の粉と合わせて作ったものとみられていますが、江戸時代の初−元和2年に名儒林道春の書いた「丙辰紀行」の中にはこの日坂のわらび餅について「或いは葛の粉をまじえて蒸し餅とし、豆の粉をかけて旅人にすすむ、人そのわらび餅なりと知りてその葛餅と言うことを知らず」とあります。もうこの時代はわらび餅といっても実際は葛餅であったといえましょう。そして江戸時代初期に出た「料理物語」という書物にも葛の粉を原料とした葛餅の製法が紹介され、家伝の菓子としても賞美されたようです。

    江戸も後期になりますと、されに工夫がこらされ、主として小麦粉を原料として葛餅以上の味を持つ「くず餅」が製造されるようになり江戸っ子の嗜好に合って好評を博するようになりました。

 


    さて江戸の近郊である川崎とその付近は古来麦の産地として知られており、元禄7年俳聖芭蕉は川崎宿で門弟たちと別れるに際し、「麦の穂をたよりにつかむ別かな」と詠み、弟子たちは「麦畑や出ぬけても、なお麦の中」「刈りこみし麦の匂いや、宿の内」など詠んでいて、当時の情景が偲ばれ、誠にこのあたりは「麦の里」ともいうにふさわしかったのでありましょう。




口碑によれば、天保の頃(1830〜1840)大師河原村に、久兵衛という者あり、風雨強き夜、納屋に蓄えた小麦粉が雨で濡れ損じたため、己むなくこれをこねて樽に移し、水に溶いて放置しました。
    翌年の飢饉に際し、思い出して調べたところ歳月を経て発酵し、樽の底に純良なる澱粉が沈殿しているのを発見しました。これを加工し蒸し上げたところ風変わりな餅が出来上がりましたので、早速この餅を時の35世隆盛上人に試食を願いましたところ、その味淡白にして風雅なのを賞して、川崎大師の名物として広めることを奨めると共に、「この餅の名は、久兵衛の久の字に、無病長寿を祈念して寿の一字を附して、久寿餅とされるが宜しかろう」とそれ以来川崎大師にては葛餅(くずもち)のことを久寿餅と記されるようになりました。

     こうして川崎大師の久寿餅は160年を経て年とともに評判がたかまり、大師詣の人々は老若男女の別なく、愛好賞味し、戦後は店内で食すよりも家庭へのサービスに持ち帰り、或いは知友えの土産物として求められる方々が多く、川崎大師といえば「久寿餅」を思い出すようになりました。